死ぬってことは、なくなるってこと。
その人の明日がなくなるってこと。
その人との明日がなくなるってこと。
死ぬのは怖くないんだ。きっと。
明日を失くしてしまうのが怖いんだ。
来る明日に自分がいない。置き去りにされる。置き去りにする。それがきっと怖いんだ。
その人がいたところに虚無を感じるのが恐ろしくて。
けれどそこが埋まっていくのも恐ろしくて。
死の恐怖はそれを知っているからこそ起こり得る。
笑って死ぬことは難しいかしら。いや、やろうと思えば出来るのかもしれない。満たされる感覚に、望めば出会えるのかもしれない。
でもそれは傲慢で。そう、勝手なこと。
怖いのは、痛いのは、もしかしたら遺される方なのかもしれないから。
勿論、明日を欲し続ける中で、まだ成し得てもいない中で、苦痛と悲しみにもがいて死ぬ人が多いのかもしれない。
うん、これはたとえばの話なんですよ。
笑って死ぬという意味を、本気で考えてみただけです。
だからね、怖いんですよ。
あったかもしれないあの人との明日を想像すれば悲しいだけなのですが。
そうやって想像できることも生者の特権であるならば、死の存在はこれ以上なく明確であるのに、それでも虚無だということもまた適当であり、矢張死とは生きていることが前提で怖れるものなのでしょう。
何が言いたいのかよくわかりませんが←
誰かがいた場所がぽっかり空いて、また埋まっていく。
でも確かにぴたりとはまるものでもなく、死は死としてそこに居座り続ける。
記憶は薄れていったとしても、私はまだあの温もりを覚えている気がするし、よくはわからないけれど、それはまだ死という虚無が寄り添うように存在として残っているということなのかもしれない。
如何とも。
私には大きすぎるものも小さすぎるものもいまいち想像できないのだけれど(宇宙とか原子とか)、虚無というものも想像できずになんだかんだと小学生の頃から悶々としています。「はてしない物語」を読んだあの日からずっと。
果たして。死と虚無は同一であるのか。
なんだか最初の話題と変わった気がするけれど。
なんだろうなぁ。
なにが言いたかったんだろう。
ただまぁともかく言えることは。
私はルルーシュを怖いと思う。優しいが故に酷い人間だ。人間であるがための神性はただただ恐怖の対象にしかなりえない。
しかし。怖いけれども。愛しい。それは彼がちゃんと人間だったからなんでしょうね。
ただ、それでも、深層を覗こうと思えば思うほど恐ろしく、なのに惹かれてしまう。それもまた怖いですね。あああ…
それとやっぱり。
おばあちゃんにまた、ぎゅってして欲しいです。
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